翌朝――いつものようにイレーネとルシアンはダイニングルームで朝食を取っていた。「イレーネ。今日はどのように過ごすのだ?」ルシアンがパンにバターを塗りながら尋ねる。「はい、午前10時にマダム・ヴィクトリアのお店から品物が届きます。クローゼットの整理が終わり次第、外出してこようかと思っています」そしてイレーネはサラダを口にした。「外出? 一体何処へ行くのだ?」昨日のこともあり、ルシアンは眉をひそめた。「生地屋さんに行こうと思っています」「生地屋……? 布地を扱う店のことだよな?」「はい、その生地屋です」「生地を買ってどうするのだ?」「勿論、自分の服を仕立てる為です」「何!? 自分で服を仕立てるのか? そんなことが出来るのか?」ルシアンの知っている貴族令嬢の中で、イレーネのように服を仕立てる女性が居た試しはない。「はい、私の趣味は自分で服を作ることなので。他にすることもありませんし」イレーネは働き者だった。朝は早くから起きて畑を耕して食費を浮かし、服を仕立てては洋品店に置かせてもらって細々と収入を得ていたのだ。じっとしていることが性に合わないので服作りをしようかと考えたイレーネ。だがルシアンは別の解釈をしてしまった。「イレーネ……」(そうだよな、ここにはイレーネの知り合いは誰一人いない。友人でも出来れば寂しい思いをしなくても良いのだろうが……何しろ1年後には離婚をする。そんな状況で親しい友人が出来たとしても、将来的に気まずい関係になってしまうかもしれないしな……)「ルシアン様? どうされたのですか?」急にふさぎ込むルシアンにイレーネが声をかけた。「い、いや。そうだな……君の考えを尊重しよう。……その、色々と……申し訳ないと思っている……」「え? 何故謝るのですか? 何かルシアン様から謝罪を受けるようなことでもありましたか?」「いいんだ、それ以上言わなくても。ちゃんと分かっている、分かっているんだ。何とか対応策を考える。それまで……待っていてくれないか?」「対応策ですか……?」そして、イレーネはルシアンの言葉の真意を理解などしていない。(もしかして、洋裁道具を揃えて下さるということかしら? だったらこの際、ルシアン様のご好意に甘えてお願いしておきましょう)「分かりました、ではお待ちしておりますね。よろしくお願いいた
午前10時――その頃、イレーネはエントランスでマダム・ヴィクトリアの商品が届くのを待っていた。「あれ!? イレーネ……じゃなかった。イレーネ様、こんなところで何をしているんです?」掃除をするためにエントランスへやってきたジャックはイレーネが1人でエントランスに立っていることに気づき、声をかけた。「あ、ジャックさん。こんにちは。その節はお世話になりました」「や、やめてください! 俺に敬語なんか使わないでくださいよ! あのときは本当に申し訳有りませんでした!」そして深々と頭を下げる。丁寧に挨拶するイレーネにジャックが恐縮するのは無理無かった。それに、本来であればクビにされてもおかしくないようなことをしてしまったのに、ジャックは咎められることすら無かったのだ。『ジャックさんは、そのような方ではありません。とても親切な人で、丁寧に仕事を教えてくれます』あのときの言葉がジャックの耳に蘇る。一方のイレーネはのんびりした様子でジャックの質問に答えた。「もうそろそろ、マダム・ヴィクトリアのお店の方が尋ねてくる頃なので、お出迎えする為にこちらでお待ちしていました」「ええ!? そ、そんなことは我々使用人に任せてくださいよ! 後、俺なんかに敬語はやめて下さい! こんなことがルシアン様に知られたら……」「俺がどうかしたのか?」その時、タイミング悪くエントランスにルシアンの声が響き渡る。「ひえええ! ル、ルシアン様!」ジャックが情けない声を出した。「あ、ルシアン様。これからお出かけですか? リカルド様もご一緒なのですね?」イレーネは笑顔でルシアンとリカルドに声をかける。「ああ、これから取引先に行ってくるのだが……こんなところで2人で何をしていたのだ?」ルシアンはイレーネとジャックの顔を交互に見る。「あ、あの……そ、それは……」オロオロするジャックを見て、リカルドが口を挟んできた。「ルシアン様の外出をお見送りするためにこちらにいらっしゃったのですか?」「何? そうなのか?」ルシアンの声がほころびかけ……イレーネが口を開いた。「もうすぐ、マダム・ヴィクトリアのお店の方たちがいらっしゃるので、こちらでお待ちしておりました。そこへジャックさんが声をかけて下さったのです」正直に答えるイレーネの言葉にルシアンの眉が上がる。「な、なるほど……それ
10時半――「どうもありがとうございました」イレーネは、マダム・ヴィクトリアの荷物を部屋まで運んでくれた2人の男性店員にお礼を述べる。彼らはルシアンとリカルドが屋敷を出たのと、入れ替わるように商品を届けに訪れたのだ。「いいえ。それではこれからもまた当店をご贔屓にお願いいたします」「いつでもご来店、お待ちしておりますね」男性店員達は笑顔で挨拶する。「はい、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」イレーネも丁寧に挨拶を返すと、店員たちはお辞儀をすると部屋を出て行った。――パタン扉が閉ざされ、部屋にひとりになるとイレーネはテーブルの上を見た。そこには先程届けられた品物が入った箱や紙袋が全部で10個ほど乗っている。「さて、それでは品物の整理を始めようかしら」イレーネは腕まくりをすると、すぐに荷物を解き始めた――****ボーンボーンボーン12時を告げる鐘が部屋に鳴り響く頃、ようやくイレーネは荷物整理を終えた。「ふぅ……すごい量だったわ。こんなに沢山買い物をしたことなど無かったものね。それにしても、時間が経つのは早いのね。もう12時だなんて」その時――キュルルルル……イレーネのお腹から小さな音が鳴る。「そう言えば、お昼の食事はどうなってるのかしら……? 私は頂くことが出来るのかしら?」使用人の手伝いを断っているイレーネ。リカルドが不在の時は食事が提供されるのかどうかが不明だった。貴族令嬢ながら、貧しい生活をしていたイレーネは使用人に頼み事をするという考えが念頭に無かったのである。「お昼を出して下さいとお願いするのは図々しいわよね……かと言って厨房を借りるのもおかしな話かもしれないし……。それなら外食に行きましょう」幸い、イレーネには前払いしてもらった給金がある。「早速出かけましょう。ついでに生地屋さんを見てきましょう」イレーネは外出の準備を始めた――**** 一方、その頃厨房では使用人たちが集まり、揉めていた。「だから、私がイレーネ様の食事を届けに行くって言ってるでしょう!?」1人のメイドが金切り声を出す。「いや! 俺だ! 俺がイレーネ様の食事を届ける!」フットマンが喚く。「何言ってるんだ!? お前は今日は薪割りの仕事だっただろう? 俺が行く!」「そっちこそ、何言ってるのよ! 中庭の掃除、終わってないで
――13時過ぎイレーネは青年警察官に案内されたパン屋の前に立っていた。色々食事処を探し回ったのだが、『コルト』の町に比べて割高だった。そこで、パン屋でパンを買うことにしたのだ。「確かこのパン屋さんでは飲み物も売っていたし、店内にはカウンター席もあったわよね」自分に言い聞かせると、イレーネはパン屋の扉を開けた――「あの、お隣の席よろしいでしょうか?」バゲットサンドとホットコーヒーが乗ったトレーを手にしたイレーネ。壁際に一つだけ空いていたカウンター席を見つけ、隣に座っていたジャケット姿の青年に声をかけた。「ええ、どうぞ」青年はイレーネの方を向き、返事をする。「ありがとうございます」お礼を述べると、イレーネは早速カウンター席に着席してバゲットサンドを口にした。(フフフ……やっぱりここのパン屋さんはとても美味しいわね。路地裏にあるのに、こんなに美味しい店があるなんて……ここは穴場ね)そんなことを考えながらバゲットサンドを食べていると、不意に隣の青年から声をかけられた。「あの……すみません」「はい?」口の中のパンを飲み込むと、イレーネは返事をして振り向いた。すると、その青年は何故かじっとイレーネを見つめている。「あの……? 何か?」「い、いえ。ひょっとすると……マイスター家に案内した方ではないかと思いまして。そうですよね? 僕のこと、分かりますか?」「え……?」イレーネは青年を凝視し……思い出した。「あ! あなたは……お巡りさん!?」「ええ、そうです。良かった、人違いじゃなくて」青年は笑みを浮かべる。「申し訳ございません、気づくのが遅れてしまいました。その節は大変お世話になりました」「いえ、制服を着ていないですからね……気付かなくても当然ですよ」青年は恥ずかしそうに笑う。「そういえば、お巡りさん。本日は制服を着ていらっしゃらないのですね?」「ええ。今日は非番なんです。それで食事をしに、この店に来ていたんですよ」青年のテーブルにはトレーに乗ったコーヒーと、空の皿が置かれている。「そうだったのですね。ここのパン屋さんはとても美味しいですから。それで私も食事に来たのです。でもまさかお巡りさんにお会いするとは思いませんでした」すると、青年はためらいがちに言った。「あの……今日は非番なので……その、『お巡りさん』と言うの
「イレーネさん、こちらが布地屋さんですよ」先程のパン屋から5分程歩いた先にある、店の一角でケヴィンは足を止めた。オレンジ色のレンガ造りの建物の窓からは沢山の生地が反物として売られている様子が見える。「まぁ、何て種類が豊富なのでしょう。『コルト』の店とは大違いだわ」窓から店内を覗き込むイレーネ。その様子を微笑ましげにケヴィンは見つめている。「ケヴィンさん。折角お仕事がお休みなのに、道案内までしていただいてありがとうございます」ケヴィンを振り返ると、イレーネは笑顔で感謝の言葉を述べた。「いいえ、これくらい警察の仕事とは関係ありませんよ。それにここまで来る道のり、色々お話ができて楽しかったです」「こちらこそ商店街のお店を色々教えてくださり感謝しております」「では、僕はそろそろこの辺で失礼しますが……帰りの道は分かりますか?」少しだけ心配そうに尋ねるケヴィンにイレーネは元気よく答える。「ええ、勿論大丈夫です。こう見えても、歩くのには慣れているので道を覚えるのは得意なのですよ?」「そういえば、初めて会ったときもマイスター家まで歩いて行こうとしていましたね?」「そうでしたね。でも御安心下さい、今は辻馬車を使用しておりますので。でも、いつでも歩く覚悟はできていますから」胸を張って答えるイレーネにケヴィンはクスクスと笑う。「……本当に、あなたは面白い方ですね。それなら大丈夫そうですね。では失礼します」「はい、ケヴィンさん」ケヴィンは踵を返し、数歩歩いたところで振り返った。「イレーネさん」「はい?」「……また何か困ったことがあれば、交番でお待ちしておりますね」「分かりました、ありがとうございます」笑顔で手を振るイレーネに、ケヴィンは少しだけ口元に笑みを浮かべると帰っていった。「フフフ……どんな生地が売られているのかしら?」ケヴィンを見送ると、イレーネはウキウキしながら店の扉を開けた――****その頃、マイスター家では――「こうなったのはお前たちのせいだぞ!」主不在の厨房に料理長の怒声が響き渡る。そして、シュンと俯く十数人の使用人たち。「お前たちがさっさとイレーネ様に食事を提供しないから、何処かへ出かけられたのだ。こんなことがルシアン様の耳に触れたらどうする! 俺だって叱責されてしまうだろう!」「申し訳ありません……」「私
16時――「やっと商談が終わりましたね」馬車の中でリカルドがルシアンに話しかけてきた。「……ああ、そうだな」馬車の窓から外を眺めながら憮然とした表情で返事をするルシアン。「ルシアン様……先ほどの話、まだ気にされているのですか?」「当然だろう? 今度お会いするときは執事ではなく、奥様を同伴して来られることを期待しておりますよ。などと言われたのだからな。絶対に彼も祖父の回し者に違いない」「ルシアン様、やはり本来同伴するのは私では無かったのですね? だとしたら、すぐにでもイレーネさんを婚約者として現当主様に紹介されるべきではありませんか?」「ああ、そうなのだ。分かってはいるのだが……若干、彼女については不安なことが……ん! おい! 馬車を止めてくれ!」ルシアンの顔色が変わり、御者に命じる。「ど、どうしたのですか? ルシアン様!」突然顔色を変えて馬車を止めたルシアンに驚くリカルド。「……彼女だ!」ルシアンは馬車の扉を開けた。「え? 彼女? 誰です?」「イレーネのことに決まっているだろう!」大きな声で答えると、ルシアンは慌てて馬車から飛び降りると駆け出していく。「ルシアン様!」リカルドも慌てて馬車から降りるとルシアンの後を追う。「くそ! 一体イレーネは何をやってるんだ!?」ルシアンの視線の先には大量の荷物抱えて歩くイレーネの姿があった。しかも両肩からも荷物がぶら下がっており、町を歩く人々は奇異の目で彼女を見ている。細い身体でフラフラと歩くイレーネは見るからに危なっかしい。「イレーネ!!」ルシアンは大声で名前を呼んだ。「え? キャア!!」突然名前を呼ばれたイレーネはバランスを崩して転びそうになった。「危ない!!」ルシアンは咄嗟に背後からイレーネを支え、彼女が手にしていた荷物がドサドサと足元に落ちる。「あ……ルシアン様? お仕事はもう終わったのですか?」抱き留められながらイレーネはルシアンを見上げる。「ああ、先程終わったところ……じゃなくて! 一体君は何をしていたんだ!? 女性がこんなに沢山の荷物をひとりで抱えて歩くなんて……! 危ないじゃないか!」そこへリカルドも追いつき、イレーネが持っていた大量の荷物を見て目を見開く。「イレーネさん……まさか、たった1人でこの荷物を持って歩いていたのですか?」「はい、そうで
「イレーネ、この荷物……中に一体何が入っているんだ? 中々の重さだったのだが?」ルシアンが隣の席に座るイレーネに尋ねる。ちなみに床の上にも、向かい側に座るリカルドの隣にも荷物が置かれている。「ルシアン様、あまり女性の荷物の中を知ろうとするのは……いかがなものかと」小声でリカルドに咎められ、軽はずみな質問をしてしまったことに気付くルシアン。「あ……ゴホン! そうだったな。すまない……野暮なことを尋ねてしまって。(そうだったよな……仮にも女性、男性には知られたくない買い物だってあるだろうし……デリカシーに欠ける質問をしてしまった)すぐに反省するルシアンだったが、イレーネからは予想外の言葉が飛び出す。「まぁ、よくぞ聞いて下さいましたわ。まずはどうぞご覧下さい」イレーネは足元に置かれた紙袋の中から購入した品を取り出した。「……これは……布地か?」水色の光沢のある生地を手にしたルシアンが尋ねる。「はい、そうです。色々な布地がおいてあって、どれも目移りしてしまってつい、色々な布地を買い過ぎてしまいました。今からどのような服を縫おうか、考えるだけで楽しみです」ニコリと笑うイレーネ。「何だって? それではここにある荷物は全て布地なのか?」ルシアンは馬車に置かれた荷物を見渡した。「ええ、勿論です。布ってまとめ買いすると、結構重たいものですね。こんなに一度に沢山買ったことは無かったので意外に重くて、運ぶのに苦労していたところだったのです。本当に馬車に乗せて頂き、ありがとうございます」「「……」」そんなイレーネをルシアンとリカルドは呆れた目で見る。2人がかりで馬車にこれらの荷物を運ぶだけでも重くて大変だったのに、それをイレーネはたった1人で抱えて歩いていたからだ。(さすがはイレーネさん。本当に知れば知るほど奥が深い方だ)(信じられん……こんな細い身体の何処にあんな力があるのだ? だが、1年間の契約とはいえ、仮にもマイスター家の嫁になるのだから自覚をしてもらわなければ)そこでルシアンはイレーネを説得することにした。「と、とにかくだ。今度から買い物に行く時は誰か人を連れて行くように。仮にもそんな身なりで大量の荷物を抱えて歩いていれば周囲から目立って仕方がないからな」「あ……言われて見れば確かにそうですね。申し訳ございません……私が浅はかでした」
16時半――「大変だ! ルシアン様の馬車が帰って来たぞ!」ひとりのフットマンが慌てた様子で使用人たちのいる休憩室に駆けつけてきた。「何だって!?」「もうお帰りになったの!?」「た、大変だ!!」お茶を飲んでいた十数人の使用人たちがたちまちパニックになる。「イレーネ様がまだ戻られていないのに!!」そう、彼らが慌てる理由はただ一つ。それはイレーネが未だにマイスター家に戻っていないことだった。「ど、どうしよう……どうすればいいんだ!」「落ち着け……まずは一旦落ち着こう」「何言ってるのよ! 落ち着いていられないでしょう! もう馬車はそこまできているのでしょう?」「そうだ! まずは……」「とりあえずお出迎えだ!!」使用人達は我先にと休憩室を飛び出し、エントランスへ向かうのだった……。**『お帰りなさいませ! ルシアン様!』「あ、ああ……ただいま。珍しいこともあるものだな……一体どうしたのだ? こんなに大勢で出迎えなんて」10人以上の使用人達に出迎えられたルシアンは驚いていた。「はい。皆で集まっていたところ、ルシアン様の馬車が屋敷へ向かってくるのが目に入りました。そこで、その場にいた全員でお迎えにあがりました」リーダー格のフットマンが愛想笑いをしながら答える。そして集まった使用人達も笑顔でコクコクと頷く。頷くも……彼らの焦りはピークに達していた。(イレーネ様の所在を尋ねれたらどうしよう……)(どうか、何も聞かれませんように!)(くそ! どうして俺は今日に限って、非番じゃないんだ!)各々が不安な気持ちを抱えながら、ルシアンの言葉を待つ。「そうだったのか。なら都合がいい。数人、馬車から荷物を降ろすのを手伝ってくれ」ネクタイを緩めながら、ルシアンが命じる。「「「はい!」」」その場にいた3人のフットマンが返事をしたその時。「ただいま、戻りました」「遅くなって申し訳ございません」リカルドと共にイレーネがエントランスに姿を現した。『イレーネ様!?』使用人達が一斉に彼女の名前を叫んだ。すると……。「本日は、皆さんに行先を告げずに勝手に外出してしまってご迷惑をおかけしてしまいました。今後出掛ける際は必ず声をかけるようにしますね?」そしてイレーネは会釈した。**――19時イレーネとルシアンは向かい合わせで食事をしていた
イレーネ達が馬車の中で盛り上がっていた同時刻――ルシアンは書斎でリカルドと夕食をともにしていた。「ルシアン様……一体、どういう風の吹き回しですか? この部屋に呼び出された時は何事かと思いましたよ。またお説教でも始まるのかと思ったくらいですよ?」フォークとナイフを動かしながらリカルドが尋ねる。「もしかして俺に何か説教でもされる心当たりがあるのか?」リカルドの方を見ることもなく返事をするルシアン。「……いえ、まさか! そのようなことは絶対にありえませんから!」心当たりがありすぎるリカルドは早口で答える。「今の間が何だか少し気になるが……別にたまにはお前と一緒に食事をするのも悪くないかと思ってな。子供の頃はよく一緒に食べていただろう?」「それはそうですが……ひょっとすると、お一人での食事が物足りなかったのではありませんか?」「!」その言葉にルシアンの手が止まる。「え……? もしかして……図星……ですか?」「う、うるさい! そんなんじゃ……!」言いかけて、ルシアンはため息をつく。(もう……これ以上自分の気持ちに嘘をついても無駄だな……。俺の中でイレーネの存在が大きくなり過ぎてしまった……)「ルシアン様? どうされましたか?」ため息をつくルシアンにリカルドは心配になってきた。「ああ、そうだ。お前の言うとおりだよ……誰かと……いや、イレーネと一緒に食事をすることが、俺は当然のことだと思うようになっていたんだよ」「ルシアン様……ひょっとして、イレーネ様のことを……?」「イレーネは割り切っているよ。彼女は俺のことを雇用主と思っている」「……」その言葉にリカルドは「そんなことありませんよ」とは言えなかった。何しろ、つい最近イレーネが青年警察官を親し気に名前で呼んでいる現場を目撃したばかりだからだ。(イレーネさんは、ああいう方だ。期間限定の妻になることを条件に契約を結んでいるのだから、それ以上の感情を持つことは無いのだろう。そうでなければ、あの家を今から住めるように整えるはずないだろうし……)けれど、リカルドはそんなことは恐ろしくて口に出せなかった。「ところでリカルド。イレーネのことで頼みたいことがあるのだが……いいか?」すると、不意に思い詰めた表情でルシアンがリカルドに声をかけてきた。「……ええ。いいですよ? どのようなこと
イレーネが足を怪我したあの日から5日が経過していた。今日はブリジットたちとオペラ観劇に行く日だった。オペラを初めて観るイレーネは朝から嬉しくて、ずっとソワソワしていた。「イレーネ、どうしたんだ? 今日はいつにもまして何だか楽しそうにみえるようだが?」食後のコーヒーをイレーネと飲みながらルシアンが尋ねてきた。「フフ、分かりますか? 実はブリジット様たちと一緒にオペラを観に行くのです」イレーネが頬を染めながら答える。「あ、あぁ。そうか……そう言えば以前にそんなことを話していたな。まさか今日だったとは思わなかった」ブリジットが苦手なルシアンは詳しくオペラの話を聞いてはいなかったのだ。「はい。オペラは午後2時から開幕で、その後はブリジット様たちと夕食をご一緒する約束をしているので……それで申し訳ございませんが……」イレーネは申し訳なさそうにルシアンを見る。「何だ? それくらいのこと、気にしなくていい。夕食は1人で食べるからイレーネは楽しんでくるといい」「はい、ありがとうございます。ルシアン様」イレーネは笑顔でお礼を述べた。「あ、あぁ。別にお礼を言われるほどのことじゃないさ」照れくさくなったルシアンは新聞を広げて、自分の顔を見られないように隠すのだった。ベアトリスの顔写真が掲載された記事に気付くこともなく――****「それではイレーネさんはブリジット様たちと一緒にオペラに行かれたのですね?」書斎で仕事をしているルシアンを手伝いながらリカルドが尋ねた。「そうだ、もっとも俺はオペラなんか興味が無いからな。詳しく話は聞かなかったが」「……ええ、そうですよね」しかし、リカルドは知っている。以前のルシアンはオペラが好きだった。だが2年前の苦い経験から、リカルドはすっかり歌が嫌いになってしまったのだ。(確かにあんな手紙一本で別れを告げられてしまえば……トラウマになってしまうだろう。お気持ちは分かるものの……少しは興味を持たれてもいいのに)リカルドは書類に目を通しているルシアンの横顔をそっと見つめる。そしてその頃……。イレーネは生まれて初めてのオペラに、瞳を輝かせて食い入るように鑑賞していたのだった――****――18時半オペラ鑑賞を終えたイレーネたちは興奮した様子で、ブリジットの馬車に揺られていた。「とても素敵でした……もう
――18時ルシアンが書斎で仕事をしていると、部屋の扉がノックされた。「入ってくれ」てっきり、リカルドだと思っていたルシアンは顔も上げずに返事をする。すると扉が開かれ、部屋に声が響き渡った。「失礼いたします」「え?」その声に驚き、ルシアンは顔を上げるとイレーネが笑みを浮かべて立っていた。「イレーネ! 驚いたな……。てっきり、今夜は泊まるのかとばかり思っていた」「はい、その予定だったのですがリカルド様がいらしたので、一緒に帰ってくることにしたのです」イレーネは答えながら部屋の中に入ってきた。「ん? イレーネ。足をどうかしたのか?」ルシアンが眉を潜める。「え? 足ですか?」「ああ、歩き方がいつもとは違う」ルシアンは席を立つと、イレーネに近付き足元を見つめた。「あ、あの。少し足首をひねってしまって……」「まさか、それなのに歩いていたのか? 駄目じゃないか」言うなり、ルシアンはイレーネを抱き上げた。「え? きゃあ! ル、ルシアン様!?」ルシアンはイレーネを抱き上げたままソファに向かうと、座らせた。「足は大事にしないと駄目だ。ここに座っていろ。今、人を呼んで主治医を連れてきてもらうから」「いいえ、それなら大丈夫です。自分で手当をしましたから」イレーネは少しだけ、ドレスの裾を上げると包帯を巻いた足を見せる。「自分で治療したのか?」 包帯を巻いた足を見て、驚くルシアン。「はい、湿布薬を作って自分で包帯を巻きました。シエラ家は貧しかったのでお医者様を呼べるような環境ではありませんでしたから。お祖父様には色々教えていただきました」「イレーネ……君って人は……」ルシアンはイレーネの置かれていた境遇にグッとくる。「でも……まさか、ルシアン様に気付かれるとは思いませんでしたわ」「それはそうだろう。俺がどれだけ、君のことを見ていると思って……」そこまで言いかけルシアンは顔が赤くなり、思わず顔を背けた。(お、俺は一体何を言ってるんだ? これではイレーネのことが気になっていると言っているようなものじゃないか!)だがいつの頃からか、イレーネから目を離せなくなっていたのは事実だ。「ルシアン様? どうされたのですか?」突然そっぽを向いてしまったルシアンにイレーネは首を傾げる。「い、いや。何でもない」「そうですか……でも、嬉しいで
高級ホテルの一室で、ベアトリスが台本を呼んでいると部屋の扉がノックされた。――コンコン「帰ってきたようね」台本を置くと、ベアトリスは早速扉を開けに向かった。ドアアイを覗き込むと、すぐにベアトリスは扉を開けて訪ねてきた人物を迎え入れた。「お帰りなさい、カイン。入って頂戴」「ああ」カインは頷くと部屋の中へ入り、疲れた様子でソファに座った。「お疲れ様、それで家の様子はどうだったのかしら?」カインの向かい側のソファに座ると早速質問する。「君は、あの家は空き家になっているだろうと俺に言ったが、人が住んでいたぞ? しかも女性だ」「え? 嘘でしょう?」その言葉にベアトリスは目を見開く。「嘘なものか。あの家には若い女性が住んでいた。ブロンドの長い髪が印象的だったな。……かなり美人だった。それに何故か警察官がいて、職務質問をされたよ」「そんな……あの家に人が住んでいたなんて……まさか、ルシアンは家を手放したっていうの? ずっとこの家は残しておくって約束してくれていたのに……」ベアトリスは悔しそうに唇を噛む。「俺が職務質問をされた話はどうでもいいのかよ……? まぁいい。どうせ君は俺には興味が無いのだからな。家を残しておくという話は2人が恋人同士だった頃のことだろう? とっくに手放していたっておかしな話ではないはずだ。そもそも彼を捨てたのは君の方だろう? ベアトリス……まさか、まだその男に未練があるのか?」眉をひそめるカイン。「……あの時は、別れたくて別れたわけじゃないわよ。彼の祖父は私のことを軽蔑して、私達の仲を反対していたのだから。それに、舞台のオファーは私にようやく回ってきたチャンスだったのよ」「だから、引き止める恋人を捨てて渡航したんだろう? 置き手紙一つだけ残して」「そうよ……だって、本当に必死だったのよ。失ったものは大きかったけど、私はこの通り成功したわ。それも今では世界の歌姫と呼ばれるほどにね」「それで今回かつての恋人がいた地『デリア』に来て、未練が募ってきたってわけか?」「別に未練だとか、そういうわけではないわよ!」ベアトリスはカインを睨みつけた。「だったら何故俺にあの家の様子を見に行かせた? まだ彼が自分を忘れられずに家を手放していないと考えたからだろう?」「……」しかし、その問いにベアトリスは答えない。「君は置
リカルドはとても焦っていた。(一体、あの状況は何なのだ……)自分で馬車を走らせ、リカルドはここまでやってきた。するとイレーネが警察官と共に見知らぬ青年と対峙している場面に遭遇したのだ。(何故イレーネさんは警察官と一緒にいるのだろう? それにあの青年は誰だ? 何やら問い詰められているようにも見える……とにかく、今は隠れていた方が良さそうだ)そう判断したリカルドは、大木の側に馬車を止めてると急いで身を隠して様子を伺っていたのだ。「おや? 帰って行くようだ」少しの間、見ていると青年はそのまま立ち去って行った。そしてイレーネと警察官は何やら話をしている。その姿は妙に親し気に見えた。(気さくなタイプの警察官なのかもしれないな……)そんなことを考えていると、警察官が自分の方を振り向いた。「……というわけで、そこの方。貴方もいい加減出てきたらどうですか?」(え!? バレていた……!? そ、そんな……!)しかし、相手は警察官。下手な行動は取れないと判断したリカルドは観念して木の陰から出てきた。「は、はい……」「まぁ! リカルド様ではありませんか? どうしてそんなところに隠れていたのですか? どうぞこちらへいらして下さい」イレーネが笑顔で呼びかける。「はい、イレーネさん」おっかなびっくり、リカルドは二人の前にやって来た。一方、驚いているのはケヴィンだった。「ひょっとして、お二人は知り合い同士なのですか?」「はい、そうです。こちらの方はリカルド・エイデン様。この家の家主さんです」イレーネは笑顔でケヴィンに紹介する。そう、イレーネから見ればリカルドはこの家の家主に該当するのだ。「え? 家主さんだったのですか!?」ケヴィンはリカルドを見つめる。「は、はい……そうです……」(家主? 確かに私はこの家の家主のような者だが……何故、ルシアン様の名前を出さないのだろう? ハッ! そういえば、お二人は世間を騙す為の結婚……つまり、偽装結婚をする関係だ。そして目の前にいるのは警察官。もしかして偽装結婚は犯罪に値するのだろうか? それでイレーネさんはルシアン様の名前を出さなかったのかもしれない!)心配性のリカルドは目まぐるしく考えを巡らせ、自分の中で結論付けた。「はい、私はイレーネさんにこの屋敷を貸している(今は)家主のリカルド・エイデンです」早
――16時「大分、痛みがひいたみたいね」イレーネは立ち上がると歩いてみた。「これなら農作業用具を片付けられそうだわ」エプロンを身に着けている時。――コンコン突然部屋にノックの音が響き渡った。「あら? 誰かしら? もしかしてルシアン様かしら」イレーネは少しだけ足を引きずりながらへ向かうとドアアイを覗き込み、驚いた。「え? ケヴィンさん?」何と訪ねてきたのはケヴィンだったのだ。イレーネは慌てて扉を開けた。「いきなり訪ねてすみません、イレーネさん」ケヴィンはイレーネの姿を見ると笑みを浮かべた。「ケヴィンさん、一体どうなさったのですか? まだ制服姿ということはお仕事中ですよね?」「ええ、そうなのですが……イレーネさんの怪我が気になってしまって、訪ねてしまいました。大丈夫ですか?」「ええ。自分で手当をしたので大丈夫ですわ」イレーネは包帯を巻いた足を少しだけ上に上げてみせた。「そうでしたか……それなら良かったです。あの、実はコレを届けたかったのです」ケヴィンは恥ずかしそうに紙袋を差し出してきた。「あの、これは……?」躊躇いながら受け取るイレーネ。「はい、ドライレーズンです。確か、今夜はレーズンパンを作るつもりだと仰っていましたよね?」「まぁ……それでは、わざわざ買って持ってきて下さったのですか? それではすぐに代金を支払いますね」イレーネが部屋に取って返そうとした時。「あ! 待ってください!」突然呼び止められた。「どうかしましたか?」「イレーネさん。お金なんて結構ですよ」「ですが、それでは私の気持ちが収まりませんわ」「それでしたら……あの、もしよければ……今度イレーネさんが焼いたパンを僕にも分けていただけたら嬉しいです。僕がパンを好きなのは御存知ですよね?」「そうですね。それでは今、持ってきますね。レーズンを入れていないパンなら、もう焼いていたんです」「本当ですか? ありがとうございます」笑顔になるケヴィンを玄関に残し、イレーネは家の中へ入っていった。「どうもお待たせいたしました。どうぞ、ケヴィンさん」紙袋にパンを入れたイレーネがケヴィンの元へ戻って来ると、差し出した。「うわあ……パンの良い匂いがしますね。それにまだ温かい」「はい、30分ほど前に焼き上がったところですから」「ありがとうございます。味わっ
「どうもありがとうございました」別宅の前に馬車が到着し、イレーネは馬車代を支払うと痛みを押さえて降り立った。「大丈夫ですか? お客様」男性御者が心配そうに声をかけてくる。「ええ、大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます」「では、失礼します」互いに挨拶を交わすと馬車は走り去っていった。「……何だか痛みが酷くなってきたみたいだわ。早く治療しなくちゃ」痛む足を引きずりながら、イレーネは家の中へ入っていった――** 帰宅したイレーネは、湿布を作るために台所で材料を探していた。「え〜と、小麦粉にビネガーは……あ、あったわ」早速小麦粉をビネガーと混ぜて練り合わせると用意していたガーゼに塗ると、ガーゼを痛めた足首にそっとあてる。「つ、冷たい……でも我慢我慢」自分に言い聞かせ、包帯を巻きつけた。「……出来たわ。どうかしら?」早速イレーネは少しだけ歩いてみた。「だいぶ痛みは和らいだみたいね。やっぱりお祖父様直伝の湿布は効果があるわ」窓の外を見ると、そこには農作業用道具が畑の側に置かれている。「……こんな状態じゃなければ、マイスター家に戻っていたのだけれど……」買い物から帰宅後は、すぐに畑仕事が出来るように用具を出して出掛けてしまっていたのだ。「痛みがひいたら、片付けをしなくちゃ」イレーネはポツリと呟いた。****「今日もイレーネさんは別宅に泊まられるのですね」仕事をしているルシアンに紅茶を注ぎながらリカルドが尋ねた。「そうだ。……別宅という言い方をするな」ムッとした様子でルシアンがリカルドを見る。「それは失礼致しました」「全く……イレーネはあの家が好きなようだ。毎回楽しそうに行っているからな」「つまらなそうな顔をして出掛けられるより、余程良いではありませんか」リカルドの言葉に、ルシアンは呆れ顔になる。「あのなぁ、俺はそんなことを話しているんじゃない。……もしかして、あの場所には何かあるんじゃないだろうか?」「何かとは?」「それが分からないから、何かと言ってるんだろう?」「ルシアン様……」じっとリカルドはルシアンを見つめる。「な、何だ?」「本当に、イレーネさんのことを気にかけてらっしゃるのですねぇ?」「それは当然だろう? 何しろ彼女とは契約を結んだ婚約者の関係だからな。今月開催する任命式で、正式にイレーネ
イレーネがベアトリスをじっと見つめていた時。「サイン下さい!」突然イレーネの後ろにいた男性が前に進み出てきて、ぶつかってきた。「キャア!」小柄なイレーネはそのまま、前のめりに転んでしまった。はずみで持っていた買い物袋も地面に落ち、袋の中からリンゴがコロコロとベアトリスの足元に転がっていく。「まぁ! 大変!」ファンにサインをしていたベアトリスはリンゴを拾うと、イレーネに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?」イレーネに手を差し伸べるベアトリス。「は、はい……ご親切にありがとうございます」その手を借りてイレーネは立ち上がると、次にベアトリスはぶつかってきた男性を睨みつけた。「ちょっと! 貴方はレディにぶつかって転ばせてしまったのに、手を貸すどころか謝罪も出来ないのですか!?」「え? す、すみません!!」ベアトリスにサインをねだろうとした男性はオロオロしている。そんな男性を一瞥するとベアトリスはイレーネに笑みを浮かべた。「申し訳ございません。お詫びの印にサインをしてさしあげますわ。どれにすればよろしいですか?」「え? サ、サインですか!?」そんなつもりで並んでいなかったイレーネは当然戸惑い……ふと、閃いた。「あの、でしたらこのメモに書いていただけませんか?」イレーネは買い物メモをひっくり返して手渡した。「あら? これにですか?」怪訝そうな表情を浮かべるベアトリス。「はい、まさかこのような場所で大スターにお会いできるとは思ってもいなかったので他に持ち合わせがないのです。でも、額に入れて飾らせていただきます!」「まぁ。そこまで言って頂けるなんて嬉しいわ。ではこのメモにサインしましょう」ベアトリスはイレーネからメモを受け取ると、サラサラとサインをして手渡してきた。「はい、どうぞ」「ありがとうございます……一生の宝物にさせていただきますね」「フフフ。大げさな方ね」そのとき――「劇団員の皆様! お待たせ致しました! 迎えの馬車が到着いたしました!」スーツ姿の男性が大きな声で呼びかけてきた。「行こう、ベアトリス」そこへ黒髪の青年が現れて、ベアトリスに声をかけてきた。「そうね、カイン」そしてベアトリスはカインと呼んだ男性と共に、その場を去って行った。「あ〜あ……サインもらいそびれてしまった……」「やっぱりベアトリスは美
あの嵐の日から、早いもので3ヶ月が経過していた。イレーネは半月に一度は、リカルドから譲り受けた家に通うようになっていたのだった。「それでは、今日もあの家に行くつもりなのか?」朝食の席でルシアンがイレーネに尋ねる。「はい、行ってきます」笑顔で返事をするイレーネ。「だが、何もそんなに頻繁に行かなくても……」言葉をつまらせるルシアンにイレーネは理由を述べた。「あの家は空き家ですから、定期的に訪れて管理をしないと家の維持は難しいですから」「そうか……」正直に言うとルシアンは、イレーネにあまりあの家には通って欲しくは無かった。その理由はただ一つしかない。「心配しなくても大丈夫です。明日にはまた戻りますので」「……分かった。なら気をつけて行くといい」「はい、ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をした。**** イレーネは今夜の食材を買うために、1人で町に出てきていた。「えっと……バターは買ったし……あ、そうだわ。ドライフルーツを買わなくちゃ。今夜はレーズンパンを作るんだったわ」買い物メモを確認すると、イレーネはポケットにしまった。「それにしても、今日の駅前は凄い人手ね。一体何があったのかしら?」駅前には大勢の人々が集結していた。しかも大騒ぎになっており、警察官たちまで警備にあたっている。「もしかして、有名人でも来ているのかしら?」好奇心旺盛なイレーネは、一度気になったものは確認してみなければならない性格をしている。「ドライフルーツは後で買えるものね……行ってみましょう」そしてイレーネは人だかりの方へ足を向けた。**「皆さん! 落ち着いて! 押さないで下さい!」「道を開けて下さい!」騒ぎの中心から大きな声が聞こえている。「サインして下さい!」中にはサインをねだる声まである。「え? サイン? もしかして有名人でも来ているのかしら?」イレーネは誰が来ているのか、見たくても人だかりが出来ているので確認することも出来ない。そのとき――「あれ? イレーネさんじゃありませんか!」不意に声をかけられた。「え?」驚いて振り向くと、警察官姿のケヴィンが自分を見つめている。「まぁ! ケヴィンさん、こんにちは。偶然ですわね」「こんにちは。もしかしてイレーネさん……見物に来たのですか?」「は、はい……。何事か興味があったの